悪魔 と呼ばれる者
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ビュー(夢)での更新です。
悪魔がやってくるという。
人々は恐れ慌てふためいて世の終わりを叫んだ。
見ると空の雲間が開き、まばゆい光が差し込んで彩雲が現れた。その彩雲の乗った白衣を着た人物と、その後ろには大軍がひかえているのが見えた。
驚くことに、地に光が射しこむや陰がウネウネと動いて苦しんでいる。そして陰はネバネバした闇に変化して断末魔の叫びと共に霧散した。
彩雲の主はミカエル:雍主日子命であった。現れたのは言うまでもなく、神々とその軍勢であり、悪魔ではない。
とするならば、人々が「悪魔が来る」と恐れおののいていたのは神々のことであったのである。
なるほど、悪魔からすれば自分たちを滅ぼすに来る神々は「悪魔」に違いない。
神々の眷属のひとりは言われた。
「一つのモノに2つ名があり。しかしてその2つ名は同じことを意味しない。それは麦と毒麦の話と同様に、注意し分けねばならない。」
私は意味を理解しかねていたが、言葉はさらに続いた。
「上は下で下が上である。 天国は天になく、地の中心にあることを知れ。
地表は«世界» の底である。
汝らは立っているのではなく、ぶら下がっているのである。心一つで足は地を離れ魔界の空へと吸い込まれるのである。汝らが見ている空は魔界の更に底の底へと«落ちて»いるのである。故に汝らは常に危うい状態であることを知れ。
見よ。我らのことを《悪魔》と呼び恐れる者たちを。 彼らと我らのどちらが真に«悪魔»であろうか。
光に苦しみ消える闇は神であろうか。
悪魔は自らを悪魔とは思ってはいない。悪魔には悪魔の《正義》がある。正しいと思うことを«正義»という。しかしながら同じ«正義»という言葉にも表裏あり。毒麦は毒麦である。よく目を凝らし分ける目をもて。」
こう言われている内にも、光はあまねく大地を包み、闇はウネウネと苦しみ消え去るのが見える。
悪魔がやってくるという。
人々は恐れ慌てふためいて世の終わりを叫んだ。
見ると空の雲間が開き、まばゆい光が差し込んで彩雲が現れた。その彩雲の乗った白衣を着た人物と、その後ろには大軍がひかえているのが見えた。
驚くことに、地に光が射しこむや陰がウネウネと動いて苦しんでいる。そして陰はネバネバした闇に変化して断末魔の叫びと共に霧散した。
彩雲の主はミカエル:雍主日子命であった。現れたのは言うまでもなく、神々とその軍勢であり、悪魔ではない。
とするならば、人々が「悪魔が来る」と恐れおののいていたのは神々のことであったのである。
なるほど、悪魔からすれば自分たちを滅ぼすに来る神々は「悪魔」に違いない。
神々の眷属のひとりは言われた。
「一つのモノに2つ名があり。しかしてその2つ名は同じことを意味しない。それは麦と毒麦の話と同様に、注意し分けねばならない。」
私は意味を理解しかねていたが、言葉はさらに続いた。
「上は下で下が上である。 天国は天になく、地の中心にあることを知れ。
地表は«世界» の底である。
汝らは立っているのではなく、ぶら下がっているのである。心一つで足は地を離れ魔界の空へと吸い込まれるのである。汝らが見ている空は魔界の更に底の底へと«落ちて»いるのである。故に汝らは常に危うい状態であることを知れ。
見よ。我らのことを《悪魔》と呼び恐れる者たちを。 彼らと我らのどちらが真に«悪魔»であろうか。
光に苦しみ消える闇は神であろうか。
悪魔は自らを悪魔とは思ってはいない。悪魔には悪魔の《正義》がある。正しいと思うことを«正義»という。しかしながら同じ«正義»という言葉にも表裏あり。毒麦は毒麦である。よく目を凝らし分ける目をもて。」
こう言われている内にも、光はあまねく大地を包み、闇はウネウネと苦しみ消え去るのが見える。
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